「京都大学農学部百年史」より
(1)古賀正巳・可知貫一教授時代(1924 ~ 1945 年)
当分野は 1924 年に農林工学科第二講座として発足し,土地改良学及び耕地整理論を担当した.1925 年に農業工学第二講座と改称している.初代の担当教授は古賀正巳である.古賀は,主に暗渠排水と作物に対する適正地下水位の研究を行った.本学部摂津農場における暗渠排水とパイプ灌漑施設の設置に主導的役割を果たし,降雨時の暗渠排水量や地下水位変動を調査するとともに,除塩を必要とする干拓地などへの暗渠敷設を行った.
古賀が 1936 年に退官した後,国営巨椋池干拓事業所所長であった農林技師の可知貫一が1937 年に教授に就任した.可知は圃場試験を行って適正地下水位の研究を継続するとともに,栃木県那須野原での地下水研究を行い,1944 年に「地下水強化と農業水利」(地人書館)を著した.この中で,浸透水は必ずしも損失水量ではなく,地層に貯留されることで反復利用され,これを農業水利計画に盛り込むことを実証的に提案している.近年の「地下ダム」開発につながる構想がこの時代にあったことは興味深い.また,当時の国情から食糧増産のための地区排水研究が行われ,満州国の未開発地における土地改良事業の指導にもあたった.
(2)大枝益賢教授時代(1945 ~1960 年)
可知の退官後,一時,農林工学第一講座の高月豊一教授が本講座を併任したが,1949 年より大枝益賢が担当となった.「灌漑排水学は地表水と地下水と一連のものとして考えるべき」として,地下水研究を推進した.放射性同位体をトレーサーとして用いるなどして干拓地の淡水・塩水動態や河川伏流の解明がなされた.
この時代に行われた水稲田用水量研究は,水田土壌中の浸透機構の研究に発展し,鉛直降下浸透における負圧発生機構,現地透水係数測定法などの土壌物理学研究が精力的になされた.また,現在の水田用水計画にも含まれている適正浸透量が現地観測から示された.さらに,洪水流出や水利用の基礎となる山地の流出機構の解明に着手し,本学上賀茂試験地での流量観測を開始した.観測は以後長期にわたって継続され,水文学研究に大いに活用された.
(3)冨士岡義一教授時代(1961 ~ 1973 年)
大枝の退官に伴い,助教授であった冨士岡義一が教授として就任した.在任中,1963 年に講座名改称に伴い「土地改良学および農地造成学講座」となり,さらに 1966 年に農地計画学講座の創設に伴い,「かんがい排水学講座」となった.
冨士岡は,水田だけではなく,畑地,転換畑,施設畑での灌漑排水の重要性を強調し,土地生産性と労働生産性に加えて,用水の生産性(灌漑効率)の向上のための技術開発に向けたさまざまな研究を進めた.「灌漑排水学は,多様化する農用地の最適な生育環境づくりを水の生産性向上を通じて実現するための総合技術である」と考えていたといえる.
たとえば,水田に関連した研究では,漏水田の浸透抑制のためのベントナイト客土,水稲生育に伴う微気象要素と蒸発散,合成高分子改良材による粘質土壌の改良などである.畑地に関連した研究では,有効土壌水分に着目した畑地用水量決定の合理化,ミカン園散水灌漑における消費水量や灌漑効率,畑地の散水灌漑における管配水,畑地灌漑における降雨の有効利用などである.
圃場排水の合理的設計のために,暗渠排水の研究は継続的に行われ,暗渠排水量と地下水位低下特性の把握とともに成層土壌中での浸透計算と暗渠埋め戻し部の排水効果,転換畑での降雨と暗渠排水流出の関係が明らかにされた.また,粘質土壌水田における亀裂の性状と亀裂内部での蒸発特性の研究,粘質土壌水田の暗渠排水に果たす亀裂と埋め戻し部の役割を踏まえた合理的な暗渠組織の決定方法の研究がなされた.
配水施設に関しては,灌漑における管配水組織の合理的設計のための水理計算法や配水エネルギーの最小化を目標とした配水組織の分割と統合に関する研究が行われ,琵琶湖総合開発における琵琶湖を水源とする揚水灌漑システムの拡大へとつながることになった.
さらに,都市化の進展による農地の他用途への転換に懸念を示し,都市近郊農地の動向予測の研究を行って土地利用計画,農村計画的見地を含めた圃場整備の重要性を説いた.
冨士岡の研究は,まず現場から研究課題を抽出し,現象を実験によって確かめて,理論的に検証し,新しい技術を開発するという手法で進められ,その際には基礎科学に実証的方法がもちこまれた.その科学分野が土壌物理学研究である.大枝時代から冨士岡が中心となって進展させた浸透機構研究は特出すべきものであり,上記に示した研究の多くも土壌物理学を基礎として展開した.
1973 年 1 月,冨士岡は不帰の客となる.門下生 30 名は,恩師の業績を顕彰して,同年12月に「かんがい排水学の歩み」((社)畑地農業振興会)を出版した.農業土木と灌漑排水学に対する冨士岡の考え方が述べられるとともに,灌漑排水研究の流れと冨士岡時代の研究の位置づけが整理され,農業土木の学問と技術の形成過程が理解できる書となっている.
(4)丸山利輔教授時代(1973 ~ 1997 年)
冨士岡の急逝後,助教授であった丸山利輔が後任教授として就任した.丸山は,灌漑排水学を単なる技術ではなく,確固たる基礎を有した学として発展させるために,「灌漑排水は自然の水循環を補完して,我々が望ましいと考える姿に近づけることである」と捉え,灌漑排水学の基本を「水循環とその人為による管理」と考えた.この基本理念のもとで灌漑排水学を科学および工学として体系化し,水循環研究の基礎学として,土壌物理学と水文学を位置づけ,多様な研究を展開した.
土壌物理学の分野では,粘質土壌の亀裂発生と圃場排水,土壌構造モデルを仮定した保水特性と透水性の推定,軟X線を利用した土壌中の流体の流れの可視化,土壌水分保持条件からみた熱伝導率と土壌水分量の関係,土壌の凍結融解と凍結深計測,帯水層熱エネルギー貯留に関連した土壌中の熱と水の同時輸送などの研究が行われた.
広域蒸発散の分野では,上賀茂試験地での水文観測長期データを武器にした短期水収支法による蒸発散量の定量評価,補完法や熱収支法による蒸発散量評価がなされた.熱収支研究は,水田への適用から水田水温の研究へと発展し,山腹傾斜地への適用から地形による日射環境の影響が評価された.さらに,蒸発散研究は農地や山林の気候緩和機能評価に展開した.
地表水の分野では,山地流出解析に対する重みつき最小二乗法による単位図法の適用が提案された.また,山科川流域での都市化や五条吉野地区での農地開発による土地利用の変化が流出に及ぼす影響が研究され,山林流域が必ずしも渇水を緩和しないという貴重な知見を得ている.
地下水の分野では,濃尾平野における都市化に伴う地下水環境の変化を水循環全体の変化の中で総合的に捉えた研究が行われた.この中で,帯水層定数の逆同定問題の研究が進展し,その後の山科盆地,野洲川扇状地,愛知川扇状地の地下水流動解析に応用された.
水量に加えて水質に関する研究にも着手し,畑地造成に伴う水質の変化,水田からの汚濁負荷流出,造成農地の水質形成機構,溜池を有する農村地域の水質の実証研究がなされた.
一方,水循環の管理に関する研究は,水田用水量,畑地用水量,農地排水を主な対象として進められた.水田用水量に関しては,圃場整備に伴う水田用水量の変化,栽培管理用水の実態,反復利用を内包した地域の水田用水量として定義される広域用水量の評価,広域水需給分析のための複合タンクモデルの開発などの研究が行われた.また,冨士岡時代に行われた管配水組織の研究はさらに発展し,コストポテンシャルを利用したパイプラインの容量と落差配分の最適設計問題に適用された.畑地用水量に関しては,下層からの毛管補給,浅層頻繁灌漑などに関する研究が行われ,農地排水に関しては,暗渠排水の研究に加え,圃場整備や汎用農地化が必要とされる中で,地表排水の技術基準の位置づけが明らかにされた.これら灌漑排水学の知見は,丸山が中心となり,『新編 潅漑排水』(養賢堂,上巻 1986 年・下巻 1988 年)にまとめられるとともに,土地改良事業計画設計基準に随時反映された.
農業土木学は生産基盤整備を主体とした学として進展したが,多量のエネルギー投入や環境負荷の拡大といった歪みを生み,資源循環社会を消滅させてきた側面があった.この状況から脱却するために,生活・自然・文化環境までを対象とした地域環境整備の工学としての転換が必要になった.この理念は 1996 年に『地域環境工学』(朝倉書店)として丸山が中心となり整理された.また,講座出身の研究者が集って「地域環境研究のあり方」を議論し,今後行うべき研究課題を考察し,丸山時代の研究総括として,1997 年に『地域環境と潅漑排水――農業土木学から地域環境工学への展開』((社)畑地農業振興会)がまとめられた.
なお,丸山は,1994 ~ 1995 年度の農学部長・農学研究科長を務め,大学院重点化に伴う改組の準備に尽力した.1995 年,改組により,本講座は「水環境工学分野」に改称された.
本学教授時代を中心に行った一連の研究が評価され,丸山は 2007 年に日本学士院賞を受賞し,2018 年,日本学士院会員に選定され,今なおわが国の学術の発展に力を注いでいる.
(5)三野徹教授時代(1997 ~ 2007 年)
1997 年,岡山大学教授の三野徹が教授として就任した.三野は冨士岡・丸山時代に助手・助教授として,管配水組織の合理的設計をはじめ,地下水や土壌物理研究の多くの課題に取り組んでいた.地域環境工学の時代における灌漑排水学と水文学の教科書が必要と考え,丸山とともに編集し,1998 年に『水利環境工学』,1999 年に『地域環境水文学』(ともに朝倉書店)を出版した.
三野が担当した時代は,成長型社会から成熟化社会へとわが国が大きく転換する中で,農業土木が変革を迫られた時期と重なった.灌漑による水循環の改変が社会の成長をもたらす一方で,さまざまな環境問題を引き起こすことを三野は 1980 年にイスラエルで目の当たりにしており,この経験も踏まえ,取り組むべき課題を「成熟化社会における水と環境制御技術」と位置づけて研究を進めた.灌漑排水を流域水循環の視点から評価することにより,水資源利用可能量を規定する流域貯留容量の理論的算定法を開発し,自然貯留容量を踏まえた人工貯留容量の推定を可能とした.また,地域基盤の視点から,利水システムを社会的共通資本として捉え,水管理は必ずしも経済合理性や技術合理性だけに従うものではないという「水利コモンズ論」を提唱した.
その理論実証のため,農業と農業水利の多面的機能の定量評価に関連して,たとえば地域用水に対する住民評価,農地や溜池の気候緩和効果,流域や溜池の洪水緩和効果,水田の地下水涵養機能,傾斜地水田群における地下水文環境評価,地域資源管理としてのメタン発酵消化液の農地利用,魚類生態系に配慮した水田水管理などの研究が行われた.また,土壌保全や環境への負の影響の緩和方策として,ニジェールの斜面農地保全,塩類土壌の灌漑による除塩,地下水窒素汚染防止のための施肥管理,循環灌漑による水田からの流出負荷削減効果などが現地観測をベースに研究された.また,三野は土壌物理研究にもおいてさまざまな発想を学生に投げかけ,土壌の連続気相率と通気係数の音響測定法の開発などが行われた.
三野時代の研究成果は,現在の農業施策の一つの柱である多面的機能の維持・発揮のための日本型直接支払の制度設計に活用され,わが国の農業農村の活性化に大きく寄与した.
(6)川島茂人教授時代(2007 ~ 2019 年)
2007 年に川島茂人が農業環境技術研究所から教授に着任した.川島は,「環境研究においては,①モニタリング(測定・評価手法の開発を含む),②メカニズム解明,③モデリングが基本的なアプローチであり,これらは相互に作用する」として,研究活動を指導した.丸山時代に自身が行っていた植物群落の微気象研究を発展させ,屋上における水稲栽培の気候緩和効果の評価を実験的に行った.また,気象とエアロゾル飛散の関係に着目して,とくに花粉飛散の予測研究を行い,風力場がエアロゾルのサンプリング効率に及ぼす影響評価や気象情報を用いた飛散量予測のための決定論的・確率論的モデルの開発が行われた.
灌漑排水研究では,三野時代からの農地や水路からの環境負荷(窒素,リン)の動態と流出負荷抑制に関する研究を継続するとともに,丸山(石川県参与)が主導した手取川扇状地の流域水循環研究に参画し,水の安定同位体比を用いた地下水涵養機構評価に取り組んだ.また,大気環境と水・土壌との関わりとして,ベトナムでの水田からのメタン放出抑制のための水管理研究や福島第一原子力発電所事故に伴う流域水循環での放射性物質の動態調査を行った.
川島時代では,4 つの圏域(水圏・土壌圏・大気圏・生物圏)の一貫した連続体の中での環境研究が意識づけされたといえる.
(7)中村公人教授時代(2019 年~現在)
2019 年,准教授であった中村公人が教授に就任した.これまでに培われてきた研究の流れを継承し,灌漑排水は農業生産の安定だけではなく,地域の水・土壌・大気環境や生態系の保全にも貢献できる技術・学問であると捉え,実現可能性を考慮した「健全な地域環境を創出するための水のマネジメント」を具体的に示すための研究を進めている.とくに地球温暖化に伴う気候変動の影響が顕在化する中で,地域環境における水・化学物質・熱移動のメカニズムの解明とモデル化を通し,気候変動の緩和策と適応策としての灌漑排水の可能性を広げるべく取り組んでいる.
最後に,一連の研究は,紙面の都合上名前を省略したが,教授の指揮の下,助教授・准教授,講師,助手・助教,そして学生が一丸となって取り組んだものであり,その過程で,灌漑排水に関わる分野で活躍する多くの人材を輩出してきたことを書き留めておきたい.
「京都大学農学部七十年史」より
1. 古賀正巳・可知貫一教授時代(1924~1945年)
この講座は,1924(大正 13) 年農林工学第二講座として発足した.当時の講座の担当内容は,土地改良学及び耕地整理論であり,初代の担当教授は古賀正巳であった.古賀は病気がちであり,1936(昭和 11) 年に退官した.後任には,農林技師(国営巨椋池干拓事業所所長)可知貫一が就任し,1945 年までこの講座を担任した.
古賀は,1927(昭和 2)年本学部摂津農場の設計に参画し,暗渠排水およびパイプ灌漑施設の設置に主導的役割を果たした.従来,本農場の果樹園は地下水位が高かったが,この暗渠排水による地下水の排除と地下水位の低下によって現在のような良好な耕地に改良され,各種の試験が可能になった.現在では暗渠排水技術は,圃場排水の一般的技術として確立されているが,当時,相当の規模を有する果樹園に対し,組織的に暗渠排水工事を実施した例は,本邦での嚆矢であった.
続いて,干拓地の除塩を必要とする特殊土壌に対してモグラ暗渠が適切であると考え,その穿孔機を作成した.そして,国内および朝鮮において実地試験を行った.さらに,摂津農場における暗渠排水試験を続行し,助教授狩野徳太郎(後農林省農業技術研究所農業土木部長)は古賀の指導の下に,暗渠排水施工後の地下水位変動と降雨時の暗渠排水量の調査・研究を行った.
1934(昭和9)年,可知貫一は講師となり,そして 1937年8月,古賀の後任として本講座の教授に就任した.前述の研究は,可知にも引き継がれ,裏作物ならびに一般畑作物に対する適正地下水位の研究として,圃場実験を中心にして行われた.
一方,山間地や東北地方の冷害を契機にして,灌漑水温と稲作に関する研究が開始された.この研究には助教授鳥居菅生があたった.まず,灌漑期の貯水池水位および水温の深さ別変化を明らかにし,貯水池からの取水に合理的な根拠を与えた.
可知は農林技師を経験したこともあって,広い地域を対象とする実際問題に対しても研究指導にあたった.栃木県那須野原の地下水について,詳細な調査研究をまとめて,1944(昭和 19)年には『地下水強化と農業水利』(地人書館)という大著を公表した.
排水改良は,圃場を対象とした暗渠排水のみでは不十分であり,地区全体の外域の水位低下が必要なことと考え,大型のポンプ排水の研究に進んだ.当時,海岸地域や大河川の沿岸地域の低湿地は肥沃な土壌であるにもかかわらず,排水不良のために裏作が不可能な所が多かった.これを改良することは,当時の国情からは緊急のことであった.
さらに,満州国内における日本開拓民の耕地開発が急を告げるところとなり,可知は同国内の湿地・アルカリ地など未開発の土地改良事業の指導にあたった.そして,同国の委嘱を受け,1938(昭和 13)年以降数次にわたって現地に渡り,開発計画に対して意見を開陳し,学会にその所見を報告した.
2. 大枝益賢教授時代(1945~1961年)
1945(昭和 20)年,可知が退官するに及んで,一時,農林工学第一講座担任の高月豊一教授が本講座を併任した.当時講師であった富士岡義一は,高月の指導のもとに,水稲田用水量に関する詳細な研究を進め,種々の新知見を発表した.これは,わが国の水稲田用水量合理的決定の根拠となり,この方式が農林省の計画設計基準に採用された.そして,今日まで実際に活用されている.
1949(昭和 24)年,大枝益賢が本講座を担当することになった.大枝は,灌漑排水学は,地表水・地下水を一連のものとして考えるべきであるとして,灌漑排水地域の地下水研究に着手した.地下水研究の手段として,全国に先駆けて放射性同位元素を取り上げ,トレーサーとしてこれを用いた.この研究は,大枝のもとに講師富士岡,助手桂山幸典(後京都大学名誉教授)が担当し,海岸地下水や河川伏流水,干拓地帯の淡水・海水の動態解明にこれを応用した.
一方,高月の兼担時代に開始された,河川水温に関する研究は,助教授高橋一郎(後近畿大学教授),助手手島三二 (後 大阪府立大学名誉教授)に引き継がれ,当時問題となっていた富山県黒部川の貯水池築造,トンネル送水と河川水温の解明に貢献した.
さらに,富士岡が分担していた水稲田用水量の研究は,水田土壌中の浸透機構の研究に発展し,成層土壌中の降下浸透に関する研究に大きく寄与した.そして,降下浸透中の負圧発生機構の解明へと進み,透水係数の現場測定に関する研究ともあいまって,1957(昭和32)年,農業土木学会学術賞を受賞することとなった.
一方,洪水流出や水利用の基礎となる山地流域からの流出機構の研究にも着手した.これは,助手手島が担当した.本学演習林上賀茂試験地を舞台に,量水堰による詳細な流量測定と試験地内のライシメータ試験,土壌断面調査に基づいて,物理的な根拠に基づいた流出機構の研究を行った.これは今日の物理水文学の嚆矢といえるものであり,1965(昭和 40)年手島は農業土木学会奨励賞を受賞した.
水田用水量,ことに浸透量には,水稲生産にとって適正な値が存在するはずであるという考えのもとに,大枝は適正浸透に関する研究を五十崎恒(後岐阜大学名誉教授)に分担させた.五十崎は岐阜県本巣郡における現地調査から,適正浸透が存在することを見い出した.この概念は今日,東南アジア諸国まで広く参考にされている.
3. 富士岡義一教授時代 (1961~1973 年)
1960(昭和 35)年,大枝の退官にともない,1961年2月,富士岡義一が後任教授として講座を担任した.富士岡は,従来からの水稲田の用水量に関する研究を進めるとともに,国家的要請が強くなってきた水資源有効利用の立場から,灌漑効率の増進に関する研究を展開させた.まず,漏水田の改良に関する研究として,講師長堀金造(後岡山大学名誉教授)に「ベントナイト客土」に関する一連の研究を行わせた.その結果,ベントナイト客土の学問・技術体系を確立した長堀に対して1964 年農業土木学会奨励賞が授与された.
さらに,水稲田用水量の研究は,水稲の蒸発散に関する研究に発展した.蒸発散を単に水蒸気の流れとしてとらえるのみでなく, 熱移動をもともなう現象としてとらえ,新しい蒸発散研究の分野を開拓した. 大学院生松田松二(後信州大学名誉教授)はこれを分担し,のちに1966 年農業土木学会奨励賞を受けることとなった.
一方,畑地灌漑に関する研究も展開した.富士岡は,わが国の畑地灌漑は,湿潤地帯の畑地灌漑体系であり,世界に一般的にみられる乾燥地帯の体系とは大きく異なることを強く指摘した.これは,畑地灌漑施設の多目的利用への契機となり,今日広く利用されているスプリンクラーによる薬剤散布や凍霜害防止の研究の動機を与えることとなった.
畑地灌漑に関する研究は,土壌水分の精確な測定が基本となることから,石膏ブロックやファイバーグラスユニットによる土壌水分測定の研究も展開された.この研究は,大学院生西出勤(後岐阜大学名誉教授)が分担した.この畑地灌漑の研究は,樹園地での消費水量の研究へと展開した.大学院生海田能宏(後,京都大学名誉教授)はこれを分担し,和歌山県有田郡の果樹園において詳細な研究をまとめた.この成果は,今日でも精度において群を抜いており,広く引用されている.
当時,農業近代化のために圃場排水が重要な研究課題として取り上げられ,その基礎として粘質土壌の物理性に関する研究も展開された.助手佐藤晃一(後愛媛大学名誉教授)は,粘質土壌のクラックについて研究し,その発生機構・形態および内部での蒸発について研究した.また助教授丸山利輔は,同じく粘質土壌の排水問題について研究し,排水に果たすクラックおよび埋め戻し部の役割,クラックの発生機構やその内部の水の流動抵抗などについて研究した.これらの成果は,現在土地改良事業計画設計基準(暗渠排水)に採用され実際に役立っている.
このように活発な研究活動を展開した富士岡は,1973(昭和 48)年1月11日,脳溢血のため,京都駅において不帰の客となった.灌漑排水学確立という大きな仕事を完成させようとした矢先の出来事だけに,関係者一同の悲しみは大きかった.
なお,本講座は 1963(昭和 38)年,講座名変更により,従前の農業工学第二講座から,その内容を示す「土地改良学及び農地造成学講座」に改められた.さらに,1966年,「農地計画学講座」の増設にともない,「かんがい排水学講座」となった.
4. 丸山利輔教授時代(1973~1997年)
富士岡教授の急逝にともない,1973(昭和 48)年8月,丸山利輔が後任教授として本講座を担任することとなった。
丸山は,灌漑排水学を単なる技術ではなく,学問として成立させ,若い研究者にも魅力あるものにするためには,いかなるコンセプトのもとに研究を進めるべきかを考えた.そして,この学は,自然の水循環を補完するという考えのもとに進めるべきであるという考えのもとに,この学をより奥の深いものにするためには,その基礎である自然の水循環に対する理解を深めるための研究を進めることが重要であるとした.
このような考えに基づき,まず富士岡時代からの研究テーマのひとつである流出解析に関する研究を続行し,低水解析に対して「重みつき最小二乗法による単位図法」の適用を提案した.これはそれまでの単純な最小二乗法の適用による単位図決定法を低水解析のために一歩進めたものであった.また,「複合タンクモデル法」を提案し,助手小林慎太郎(後京都大学名誉教授)はこれを広域の水需要分析に適用した.
一方,助教授三野徹(後京都大学名誉教授)は当時,灌漑用パイプラインシステムの最適設計について,精力的に研究を展開した.滋賀県長浜地区等を事例として,パイプラインシステムの分割と統合の得失について分析を行った.また,コストポテンシャル概念を提案して,パイプラインの容量と落差配分に対して,最適設計のための新しい手法を開発した.この研究には,1976(昭和51)年農業土木学会奨励賞が与えられた.
土壌物理に関する研究も展開された。大学院生石田智之(後香川大学助教授)は土壌中の熱伝導に対するユニークなモデルを提案した.
地下水に関する研究も進めた.濃尾平野を事例地区として,都市化にともなう地下水循環の変化を研究した.これは、当時大きな問題となっていた濃尾平野の地盤沈下問題と関係することもあって,各方面から大きな関心が寄せられた.この研究で使った帯水層定数の最適同定の手法は,その後多くの研究者の採用するところとなった.なお,この研究は文字どおり研究室全員の共同研究であった.その後,大学院生藤縄克之(後信州大学名誉教授)は,山科盆地を事例地区として地下水流動の分析を行い,助手堀野治彦は,野洲川下流地区・愛知川扇状地を事例地区として地下水流動の分析を行った.堀野はこの研究に対し1992(平成4)年地下水学会奨励賞を受けた.
さらに,地表近傍の熱収支に関する研究も展開された.これは,前述した松田による水稲蒸発散の研究を発展させたものともいえる.まず,大学院生三浦健志(後岡山大学名誉教授)は,助教授三野と共同して,傾斜地における熱分配構造と蒸発散に関する研究を行い,傾斜地における土地利用に対して有用な知見を与えた.また,大学院生大槻恭一(現九州大学教授)は,蒸発散研究にわが国で初めて補完法を導入し,広域蒸発散の推定に大きく貢献した.この研究は1990(平成 2)年農業土木学会奨励賞を受けた.さらに大学院生サイードJ. A. (後タブリーズ大学(イラン)助教授)は,水稲の蒸発散を詳細に研究し,水稲蒸発散はポテンシャル蒸発を上回ること,場合によっては純放射フラックスを上回ることを明らかにした.
兼業化や都市化にともなって,水田における水需要が単純な自然的現象ではなくなり,複雑な社会的要因にも影響を受けるところとなった.このために,改めて水田の用水需要構造の研究が開始された.この研究は主として助教授渡邉紹裕が分担した.滋賀県湖東の各地区での調査結果を用いて,栽培管理用水量・圃場有効雨量の研究を行った.この成果は学会でも高く評価され,1989(平成元)年農業土木学会賞奨励賞を受けた.また,丸山はそれまでに分担した研究成果を「水循環の素過程に関する一連の研究」としてまとめ,1992 年農業土木学会学術賞を受けた.
この時代には,以上のように活発な研究展開が行われたが,研究室運営についても特筆しておかなければならないことがある.それは,週1回の割合で行われる通常のゼミナールとは別に,「大ゼミ」と呼ばれる春秋年2回のゼミナールを持ったことである.ここでは,教授から大学院生まで半年間に行った研究をまとめて2日間にわたって発表・討議される.これによって,大学院生は研究のポイントを理解することができ,教授も決して気を抜くことはできない.この時代に発表された論文は,ほとんどすべてこの「大ゼミ」の討議を得たもので,研究活動の活性化に大いに役立った.このゼミナールは,丸山が教授に着任した1973 年秋に始まり,今日まで休むことなく年2回の割合で続けられている.
一方,富士岡教授時代から今日まで,農林水産省および同各農政局・調査事務所等からその時期に問題となっている事項について委託を受け,現場で発生する具体的課題に答えてきた.また,農林水産省が中心となって実施する土地改良計画設計基準の改訂に積極的に参画して,研究成果の現場への適用に対しても積極的な役割を果してきた.